「なるたる」ひろ子のあのシーンの裏側考察

1998年から5年間にわたって連載された、鬼頭莫宏先生作「なるたる」を知っているだろうか。ネット界隈では度々ちょっとした話題としてあがる問題作?である。

その話題性もあってか、2017年には新装版として再販された。

今になって何が話題になるかというと、オムニバス形式の複雑ストーリー展開の中で幾度か唐突に訪れる残虐なシーンである。

検索エンジンから素直に「なるたる」と検索すればいくらでも紹介記事がでてくるので詳しい説明は割愛するが、ここではこの残虐なシーンの中のうちの一つである小学生によるいじめとその復讐シーン・・に隠れたこの作品のテーマ性についてあれこれ考えさせられたことをだらだらと書き綴ってみた。

 

先に要約すると、いじめの被害者である貝塚ひろ子が限界を迎え復讐に走ったのが実はいじめにあった直後ではなく、唯一の友人である主人公シイナとこれ以上合わないよう親が電話で言いつけていたのを聞いた瞬間であったのだが、この表現の中に子どもが生きる「世界」観の描写の繊細さが現れており、この物語のテーマ性を引き立たせていると勝手に解釈した、という事である。

 

(以下、登場人物やストーリーを知っていないと分からないかもしれません)

 

事件当日、ひろ子はたまたま居合わせた明に対し「弱い者へのシワよせでつじつまを合わせる世界なんてなくなってもいいかも」と話していたことから、どこかのタイミングで鬼(竜の子)を使い現状を変えたい、訳もなく自分を苦しめる周囲の人間に対して復讐をしたいと考えていたことは受け取れる。
しかしその復讐タイミングは、常軌を逸した2回目の試験管いじめの後でも良かったはずである。現に水嶋が居合わせた時には「もうやだよぉ」と泣いており、辛さをとてもこらえきれていない様子だった。
にもかかわらず、ひろ子が鬼を呼んだタイミングはここではなかった。それは帰宅後、シイナの父親にひろ子ともう関わらないよう電話をしていたのを聞きつけたひろ子が、それを問いただした時であった。この時辛い気持ちをもはや言葉にすることすらできないほど追い込まれていたのは描写から見てとれる。これを機に、ついに我慢の限界を迎えたひろ子は鬼を呼び出すことになる。

 

もちろん、直前のいじめによる精神的なダメージが相当だったものは間違いない。しかしひろ子の気持ちを極限まで追い込み、後戻りできなるほどの選択をさせるきっかけとなったのは、両親のこの行動だった。鬼を呼んだひろ子は、最初に自分の両親を殺害した。

 

明に話していた通り、そもそもひろ子が鬼を使うことで成し遂げたかったのは理不尽な「世界」を壊すことである。そしてその「世界」を構成するのは、学校および家庭、またその中で関係を持つ周囲の人達であった。
そんなひろ子の状況とは、受験教育を重要視する両親の元、家庭では塾での勉強や正しい振る舞いを強いられ、また学校ではただただ理不尽で陰湿ないじめに合っているというものだった。明に対し「友達とよべるような人はシーナしかいない」と言っていたことから、シイナと一緒にいる時だけが彼女にとって唯一心安らぐ時間だったのだろうと想像できる。そんなただ一つの光を奪われること、そしてそれを奪おうとしたのが自分の両親であったことが、決定的に彼女を追いこんでしまった。

 

ここに子どもに対する心理描写の一つの重要な要素があるように思う。
なぜならある程度自立した大人と違い、大抵の場合子どもとその「世界」にとって、両親は絶対的なものであるということが表現されているからである。
ひろ子に対して行った事の非情さでいえば、いじめの方が何倍も壮絶である。しかしいじめっ子はずっと顔を合わせなければいけない存在ではなく、現に受験した中学校に合格できれば、もう関わることのない人達である。

対して両親はこうはいかない。まだ小学6年生であり、少なくとも反抗期を迎えてはいないひろ子にとって、両親とは一生免れることのできない絶対的な存在である。学校や家庭以外にも「世界」が存在し広がりうることを、この年のひろ子が理解するのはまだ難しい。そんな絶対的な両親がシイナとの時間を奪おうとしていたことは、ひろ子にとっては凄惨ないじめにあう事以上に「世界」を崩壊させる出来事だったのだろうと思えてくる。

 

ちなみにひろ子と同様に、黒の子供会のメンバーも竜の子を使っての「世界」の崩壊、リセットを目論んだ。だが彼らが行ったことは、社会に対するテロ行為である。高校生というある程度独立した「大人」である彼らにとって、壊したかった「世界」とは言うまでもなく、そのまま人間社会である。

 

これに対し、「世界をこわしてしまいたい」と願いひろ子が最終的に殺したのは、両親といじめっ子たちのみであった。徐々に自暴自棄になり、シーン終盤には「もう何人殺しても同じでしょう」と語ったにも関わらずである。

しかし、元々の目的が「世界」を壊すことであり、その「世界」のすべてであった両親と学校のクラスメート達を殺しきってしまったことを考えると、それ以上誰にも(シイナの父親に)手をかけなかったのは、殺人という行為そのものに対するためらいがあったからというより、心の奥底ではもう目標を達成しきってしまったと分かっていたからではないだろうか。

ちなみに後のストーリーで、事件を振り返ったシイナの父親は「(鬼に拘束された時)向こうの方が怯えている感じがした」と語っている。


加えて、復讐を果たした鬼が小学校から本木空港(シイナの父親の勤務先)に移動する様子が中継されるシーンがある。ここでは「犯人は意図的に幹線道路を選んで移動しているようです。どうやらわざと追いかけさせているように思えます」という実況に対し別の大人が、この逃走経路は全てバス通りであること、それがあえて選ばれているのは普段利用する道しか知らない子ども(による犯行)だからだろう、と勘ぐる会話が描かれる。いじめっ子達への復讐後、シイナの父親にも手を出したことを表現するだけならばそもそもこのような描写は不必要であるし、移動の様子を描き臨場感を演出するにしても、逃走経路にバス通りを選んだことにまでシーンを割いて着目する必要はないだろう。

「もう何人殺しても同じ」と言うひろ子であれば、住宅でも住民でもいくらでも蹂躙していた可能性があったにも関わらず鬼にこのバス通りを選んで移動させた、というやりとりがあえて描かれた背景には、幼い子どもにとっての「世界」とは両親や友人、これまで出会ったことのある身近な人が全てである、という心理観をあえて示したかったのではないか、と考えざるを得ない。つまり両親もいじめっ子も殺害し、学校も壊すこともためらわなかったひろ子だったが、そもそも壊す必要のない「世界」の外側には手を出さなかった。

 

またこれはあくまでも予想でしかないが、もし出来事の順番が逆だったら、つまり仮にひろ子が電話を聞きつけるのがいじめを受ける前で、なんとかそれに耐えることが出来たなら、いじめにあっても鬼を呼ばずして言葉で辛さを吐き出しきることができたかもしれない・・と思ってしまう。

 

元々そこまでグロシーンへの耐性が強くない自分が、わざわざブログの記事を書きたくなるまでにこの作品に惹かれる理由は、こういった登場人物の心理の繊細さへの想像を掻き立ててくれるからかもしれない。